呪法

呪法

① 呪法をやるには、なすべき場所の邪気を祓わなければならない

元来この「邪気祓い」には九字を切ることになっている。
それは図に見られるように手の人差し指と中指の二本を立てる刀印をもって、
「臨」と唱えながら横一線を引き、次に「兵」と唱えながら縦に一線を切り下げ、
さらに「闘」と唱えながら「臨」の下に横一線を引き、また「者」と唱えながら「兵」の右に縦一線を切り下げ、
さらにまた「皆」と唱えながら「闘」の下に横一線を引き、また「陣」と唱えながら「者」の右に縦一線を切り下げ、
次に「列」と唱えながら「皆」の下に横一線を引き、さらに「在」と唱えながら「陣」の右に縦一線を切り下げ、
最後に「前」と唱えて「列」の下に横一線を引いたあと、
「悪魔降伏・怨敵退散・七難速滅・七復速生秘」
と静かに唱えて、この印明を閉じる。
刀印
これは「九」の数に陽気が充実し、常に陰気を退けることから中国で始められたものである。

しかし、その後「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字は唱えず、
刀印をもって縦横に空を切り、「悪魔降伏・・・・・・」の呪文だけ唱えるようになった。

ところがそのうちに、刀印を持って空中に大きく×印を描き、
口に「シュダー」と唱え、これを三回ゆっくりと繰り返すようになった。
「シュダー」とは清浄という意味である。

このほかの「邪気祓い」としては、桑の木や竹製の扇子などを自分の前におくだけという方法もある。
これは桑の木や竹に本来的に霊力があり、邪気悪魔を払うものだからである。

また、×印の刀印を切る場合、男性は左手女性は右手とされているが自分のやりやすい方の手でなさるのが一番よい。
特に、利き手が逆の人も多いはずなので、このような面倒なことは通用しない。
ただし古式によるものが好きだという人は、この限りではない。

② 呪符について。呪符は紙に書く。紙の大きさや種類は自由。

呪符は元来は石に刻んだり、土や木の皮に書いたり草の葉を結んだりしたが、その後、和紙に墨書するようになった。
その後は和紙が普通の半紙に変ったが、古式に則って行うとなれば多少面倒だ。
第一家庭に硯も墨も筆もなく、和紙も買ってこなくてはならないが、普通の文房具店では和紙も売っていない。
そこで最近では、どのような紙でも白布でもよいことになっている。
新聞の折込み紙の裏を利用されても構わない。
書くものも筆でなくてもボールペンでもサインペンでも書けるものなら何でもよい。
如何に何でも新聞の折込み紙の裏にサインペンで書いたものは有り難味が薄く、
呪いの効き目がないと思われるであろうが、さにあらず、効験に全く変わりないが要は気分の問題。

全国の神社仏閣で売られている御守りや交通安全の御札や経典などにしても、
その殆どが洋紙でしかも全て印刷された物であることを考えれば、物が有り難いのではないことに納得もいく。

要は紙や筆記具に問題があるのではなく、それを手掛かりとして神仏への「祈り」を捧げるということが重要なのである。
如何に立派な高僧の書かれた有りがたい経文の掛軸を床の間にさげ、これを日夜眺めて字の上手さだけを誉め讃えていても、
両手を合わせて「祈る」という心が全く無かったならば、これこそまさに画餅の絵空事と言わざるを得ない。
有名仏閣の本堂には、必ず小さな石の一つ一つに、経文の一字ずつを多くの人々が書いて埋めた一字一石塔が建てられているが、
これも石や筆に問題があるのではなく、そこに書かれた経文と、書いた人々の信仰心が大切と言えよう。
その為、この場合も全く同様のことが言えることになる。

呪符という物は、生きとし生ける物の全てからの、神仏への「道しるべ」と解して頂きたい。
呪符は見本を写し取っても構わないが、出来たら自分で見ながら書いた方がよい。
何も上手に書く必要は無い。
下手は下手なりによいが、心を込めて書いて頂きたい。

③ 呪文について。

元来は、どの呪文も随分と長いものになっていたが、現代ではこれが略され、きわめて短いものになっている。

例えば、釈尊の滅後インドの人々はそのイメージを変化発展させて多くの「仏」を生んだが、
その代表的な物にアミターエユス(無量寿仏)として阿弥陀仏がある。

この阿弥陀仏に対する本来の呪文はきわめて長々しいものであるが、それが縮まって、
オン・アミリタテイセイ・カラ・ウン
(甘露威光尊に帰依したてまつる。威徳光を全世界に運載し給え。円満し給え)
となり、更にこれが縮まって、
南無阿弥陀仏
となり、さらにこれが俗化されて、
ナンマイダー
となったが、その効験に少しの変わりのあろうはずがない。
ともに「阿弥陀仏に心から帰依し奉る」というものだからである。
このように考えてくると、仏壇の前でお経を読むのも、神殿の前で祝詞をあげるのも、
南無妙法蓮華経という題目を唱えるのも、また教会でアーメンの祈り言葉を捧げるのも、これはみなすべて呪文ということになる。

すなわち呪文とは、悩める一切衆生の「うめき」であり、これがそのまま「祈り言葉」であり、
これこそが神仏との心を通わせる唯一無二の融合語であり、この呪文自体が神仏そのものということにもなろう。

更にまた、呪文を唱える声であるが、「呪い」は他人に知られては全く効果がないので、決して大きな声は禁物である。
これはこころの「うめき」である。
そっと囁くような、声にもならぬような声、風邪がそっと通り抜けていくような声が理想的といえよう。

その為休日などを利用して山に行き、人目を避けて修法される人もあるが、呪符を燃やす際は、
くれぐれも火の用心だけは充分に留意されたい。
④ 呪符の前で呪文を唱える際に、秘法の効き目を高める物として桑の木・竹・山椒・桃などを供えたりするが、
桑の木や竹が手にはいらない人は桑箸や竹箸を利用し、山椒は「七味唐辛子」の中に入っている山椒を用い、桃が季節はずれでない時には、缶詰を利用されるのも良い。

また呪法には枯松葉を小指の太さにまるめた先に火を点けて用いる場合にも、枯松葉が手に入らない人は、煙草に火を点けて用いられると良い。

⑤ 最後に「邪気祓い」の秘術を解いておかなければならないので、
すべての終わりに「ラーバ」と唱えることになっている。

これは利益獲得という意味であるが、本来は九字を切ってあるので、
オン・キリキャラ・ハラハラ・フタラン・バソツ・ソワカ
(宇宙心(神仏)の威徳により、悩みを転じて楽となし、災い転じて幸せとなし給うことに、心から感謝を捧げます)
という解術文を唱えることになっている。

その後これが縮まって、
オン・バザラ・トシコク
となり、さらにこれが現在の「ラーバ」となったものである。

⑥ すべての秘法の後に、呪符や供物その他の物は先程述べた様に扱い、
呪符を書いたペンなどは別に白紙に包み、人目につかぬ所にしまい、
また次に秘法を行う際にこれを使用されると良い。

符封を柱や壁または玄関の天井などに貼る場合は、符封の四隅に少しだけ糊を付けて貼れば良いので、
決して針でとめたり、釘で打ち付けたりしてはならない。

⑦ この「呪い」は人にやってもらうのではなく、自分でやらなければ本当の効果は現れない。

但し、病人や子供または念力のきわめて薄いと思われる人だけは、家族の誰かにやってもらうよりほかにはない。
その場合は、黙って修していて、本人に告げずにした方が効き目が強くなる。
また他人から秘法を依頼された場合は、できるだけ断ったほうがよい。
特に相手を呪詛するような場合は、よほど慎重に考えないといけない。

前の呪文の個所でも一寸ふれたが、この「呪い」は、絶対に人に知られては効果はない。
見られてもいけないし、聞かれてもいけない。
ましてや自分から他人に話すようでは問題外であり効果は全くゼロとなる。

従って、秘密のうちにこっそりと行って、どのようなことがあっても絶対に人に喋ることはなく、
最後まで秘密にしておかなければならない、
呪法は秘法なのである。


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